20190429~0430

一泊二日で、両親の実家に帰っていた。

今回の帰省の目的はふたつ。ひとつは就職の報告をすること。もうひとつは先月生まれたばかりの従兄弟に会いに行くこと。

ゴールデンウィークということもあり、高速道路はお盆やお正月並みに混雑していた。

途中、母の日が近いということで、両親がそれぞれの親に渡すためのカーネーションを買った。どっちの祖母も、僕が初任給で買ったものだと勘違いしてとてもありがたがっていた。それを訂正しない僕も悪い。まあ、好きなように思わせておこう。

父方の祖父は既に亡くなっていて話し相手が少ないため、祖母はここぞばかりに饒舌になった。会うのは今年の正月ぶりだからまだそこまで月日は経っていないけれど、家族の顔を見ることができて祖母は本当に嬉しいんだなあと感じた。それは母方の祖父母も同じだった。

それから無事就職したという報告もした。僕の職業のことはよくわかっていないだろうけど、会社に就職して頑張っているという報告が聞けただけでも充分ではないだろうか。

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生後1ヶ月半の赤ん坊を抱いたのは何年ぶりだろうか。弟を抱いた時の記憶はもうほとんどない。初めてと言って良いくらいだ。

感想といえば、小さくて軽いくらいしか出てこなかった。あと、温かくて微かにミルクの匂いがした。これから彼はどのように成長してどんな人間になるのか、とても楽しみだ。

テレビをつけると30秒に1回「平成」と「令和」が出てくる今日この頃、正直元号についてはどうでも良いと思っている。元号が変わったところで今の生活は何も変わらず、問題は何ひとつ解決しないし、いつもの日常が延々と続いていくだけ。

でも、平成最後の日の朝食に祖母の手料理を食べることができて本当によかったと思う。

いつか思い出すかもしれないから


むかしから、僕の中には、香りと景色がセットになった記憶が多い。予感といってもいい。これはどこから始まって、いつまで続くのだろう。

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「野球なんて高校以来やってないし、正直だるいな・・・」

そんなことを考えていた気がする。

入社してすぐに行われた花見で「高校まで野球やってました。左投げです」なんて言ってしまったが最後、会社の野球サークルに半強制的に入部させられてしまった。

どうせ酒の席での会話なんて覚えていないだろうなんてタカをくくっていたが、どうやら元高校球児という肩書きは草野球のチームではそれなりに重宝されるらしく、役員をはじめとするサークルのお偉いさん方の記憶にはしっかりと残ってしまっていた。そして翌週にはゴールデンウィークに行われる合宿(という名の飲み会旅行)の誘いが来た。

終業間際、注文していたユニフォームが届いたというので上司の席に行った瞬間、ふと、高校から駅までの通学路が頭に浮かんできた。

「お疲れ様です、ユニフォームを受け取りに来たのですが・・・」

そう言っている間、今度は当時のチームメイトの顔を思い出した。

「あぁはいはい、これね」

上司がキャビネットを開けて紙袋に入ったユニフォームを取り出す。そして渡された紙袋を手に取った瞬間、これまで浮かんできた景色は気のせいではなかったことを知った。

突然走馬灯のように駆け巡ってきた昔の記憶の正体は、このユニフォームに染み付いた柔軟剤の香りだった。あの時と同じ、香料と化学物質が入り混じった、思い出の匂い。

思い出だけれど、決して大切にしまっておけるようなものではない。無造作に机の引き出しに詰め込んで、たまに取り出しては床に叩きつけてまた投げ捨てるように仕舞う。それでも数少ない愛おしい思い出だった。

当時の心細さと今の不安が重なり、僕は自分のデスクの前で立ち尽くした。今すぐにその紙袋の中身に顔を埋めたかった。

当時の人工芝から照り返す太陽の光が懐かしかった。傷だらけのボールの感触と、汚れた部室が恋しかった。

*****

7年前のあの時期も、今と同じ葉桜が終わりを迎えたばかりの春だった。

当時の僕は今ほど楽観的ではなく、すべてに対して不安を抱えて生きていた。当然、始まったばかりの高校生活に対しても。

とりわけ部活動には、先輩や顧問に対する畏れと、特待生として入部してくる同期に対する劣等感で情けなくも泣きそうになりながら練習をしていた。なにをしても怒られそうで、その場に順応できないつらさに押し潰されそうになりながら日々戦っていた。

そんな心と身体に行き場のない日々を思い出させてくれるのが、借り物のユニフォームから漂う、誰のものかわからない、でも確実に誰かが纏っていた香りだった。

*****

ふと嗅いだ香りから蘇る記憶のことを、僕は祝福のように思っている。たまたま鼻腔をつくうつくしいもの、予期せず目の前に降ってくるもの。想起される記憶が良いものであれ悪いものであれ、僕はそれを幸せなことだと思っている。そして、その記憶が現実に再生するのを、僕は待ちのぞんでいる気がする。

当時と同じ「新しい環境」に足を踏み入れている今、確かに不安もあるし、怖い。当時の心細さに比べると今の不安なんてちっぽけなものだけど、それは自分が大人になっただけの話で、自分の将来が心配なのは事実だ。

でも、またさらに何年か経って、「今」という景色を思い出させてくれる「香り」に出会うかもしれないと思うと、少しだけ社会人一年目という激動の一年間を頑張れる気がする。

 

 

何を得て何を学んだのか。話はそれからだ。

数年前に、京都大学を出て専業主婦になった方のブログが話題になったのを覚えている。

 

その中に、印象に残っている一文がある。

 

”そう、結局は、ジェラシーと、なんとかして学歴を手に入れるテクニックを盗んでやろうという、まるで学問に王道ではない抜け穴があるかのような、本当に馬鹿げた、下卑た考えと、大学=大企業=幸せという、いまだにそれ?みたいな変な価値観なのだよ”

 

当該記事はすでに削除されているので、残念ながら全文は読めないのだが、当時複数のメディアに取り上げたので遡れば概要は把握できると思う。

 

この記事を読んで感じたことをなんとなく、思い出しながら書いてみたい。

 

引用した箇所のような「ジェラシー」を持つ人たちは、学力というのは単に年収を手に入れるための「ツール」としか思っていないのではないかと感じる。なぜかというと、そういう人たちが「もったいない」と言ってきても、「でも僕は今こういう仕事をしていて、このくらい貰っています」という話をするとやけに「満足」するからだ。まるで自分の考えが間違っていないことを再確認するかのように。

 

世の中には様々な理由で大学を辞める人がいるけど、なぜそういった人のことを赤の他人が残念がるのかは全く理解できない。そういう人は学歴を結果として、水戸黄門の印籠のような、それだけで何かの証になるものとしかみていないのだろう。

 

でも、水戸黄門の印籠が力を発揮できるのはあくまで助さんと角さんという用心棒がいてこそであって、黄門様だけが旅していたらとっくに殺されてるはず。

 

もっと言うと、アフリカの呪術師が白人旅行者がATMでお金を下ろしているのをみてアメックスのカードを無限に金を作る魔法の道具として奉った話の方が近いかもしれない。

 

何が言いたいかっていうと、印籠やカードが無意味ってわけではなくて、そもそもカードや印籠を持っていること自体が権力や社会的信用の証明ということ。実体的な力はないけれど、間接的に力を持っている。

 

同じように京大卒という学歴や肩書きっていうのは「何かの力の証明」なのであって、それだけでは意味はないけども、逆に言えば学歴や肩書きがある人はそれらがなくても優秀であることが多い。

 

今の社会は、例えば、「東大卒は就職に強い!」みたいな結果ばかりが飛び込んでくる。そのせいで、結果ばかりが価値を持ってしまい、なぜ強いのかという過程が見えなくなってしまう。ボクサーなら仮に辞めてもパンチは強い。プロ野球選手は引退しても野球はうまい。それはその肩書きを手に入れるまでも過程で得たものであって、逆ではない。ボクサーだからパンチが強いんじゃなくて、強いからボクサー。

 

だから、学歴を捨てることに「もったいない」と言ってくるような人たちには、「ああそうか、この人たちは努力に裏切られて辛い思いをしたんだろうなあ」と思う。運が悪かったからなのか、努力の方向性が間違っていたからなのかわからないけど、後に「証明」が残らなかったんだなあと。

 

努力が全て身を結んでくれるわけではないし、成功している人が必ずしも努力しているわけでもないけれど、ボクサーになれる人はパンチ力があるし、翻訳家になる人は外国語ができるし、それだけの話なんだ。

 

東京外語大を出たから通訳になっているのではなく、外国語ができるから通訳をしているわけだし、東大出て官僚になるのも、高給取りのホワイトカラーになるのも同じことだと思う。

 

「今の社会では学歴は必要ない」っていう言説は確かにあり、僕はそれはその通りだと思うんだけど、「学歴に意味はない=学力に意味はない」ではないし、残念ながら学歴と学力は正比例してしまう。

 

社会はいつも、みんなが思うほど大きく変わらないし、みんなが思うほど不変ではない。

20180829

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8月。祖父の新盆で、福島に帰っていた。

 

祖父は生前、いろいろなことをしていたひとで、いろいろなところに付き合いのある人だった。もともとはバスの運転手をやっていて、運転手を引退してから管理職、事務なんかを継いで、趣味で囲碁と将棋をやっていた。後から聞いた話だと、若い頃はまあまあやんちゃで、酒もタバコも人並み以上な人だったらしい。

 

自分の知っている祖父は、孫たちのことが大好きだった。特に自分たち兄妹は東京に住んでいて、お盆とお正月くらいしか会えないせいか、6人の孫の中でも特に可愛がられたように思う。会いに行けばいつもトイザらスに行って好きなおもちゃをひとつ買ってくれて、少し時間ができると近くの遊園地やプールに連れて行ってくれたり、同じ本を何度も読み聞かせてくれたりした。

 

祖父が亡くなったのは、自分が大学3年生の秋。胃ガンを患って数年間苦しみ、9月18日の朝に容態が急変して、最期を看取ったのは祖母だった。
葬儀にはたくさんの人が来た。近所の人、仕事で付き合いがあった人、市役所のナントカ課の代表、昔の親戚、父や叔父の仕事関係の人などなど。

 

葬儀のことは、正直あまり覚えてない。
覚えてるのは、葬儀屋の取り決めに納得がいかず、ほぼ喧嘩腰で手続きをしていた父の姿と、棺の前で泣く妹と祖母の姿。それから葬儀中になぜかお金をいただいたこと。祖父が孫たちに残した最後のお小遣いというなんとも恥ずかしい名目で、封筒に入った3000円が渡された。火葬場に行く途中、祖父だったらどんな風に使ってほしいかななんて考えたけど、これといって浮かばなかったら遠慮なくハイライトと文庫本数冊を買わせてもらった。

 

葬儀中は全く泣かなかった。というか泣けなかった。こういうときは孫として涙のひとつくらい見せてあげるべきなんじゃないかななんてぼんやりと思ったけれど、自分でもびっくりするくらい涙が出てこなかった。自分たち6人の孫はそれぞれ前に出て、弔辞のような、別れの言葉のようなものをそれぞれ述べたけど、他の兄妹やいとこは嗚咽のせいで声にならない声で何とか言葉にしているのに対して、自分だけがしれっと落ち着いたトーンで喋っていた。

 

悲しくないと言えば嘘になるけど、泣き喚くほど悲しかったわけではない。来るべき時が来た。くらいの感じしかなかった。

 

それから約一年が過ぎて、祖父が初めて現世に帰って来る日にお線香をあげにきたのは、家族以外に誰もいなかった。読経などもされなかった。祖母と妹と3人で果物を買いに行き、仏壇に供えて手を合わせた。

 

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最初の新盆を迎えて、お線香をあげ、迎え火を焚いてそれを跨いだ。いまでも家の裏手の田んぼでは、毎年毎年たくさんの稲がこうべを垂れる準備を始める。祖父の生きていた頃と、何も変わらずに。

 

一人で散歩をしていると、なんとなく、死ぬということが怖くてたまらなくなった。人がたくさん死ぬ小説を好んで読んでるくせに。生きているからこそ人と繋がれるのであって、身体がなくなった瞬間、一瞬でみんなの記憶から消え去ってしまうことが恐ろしい。生きているあいだにどんなに立派なことを成しても、死んでしまったら、遊び終えて忘れ去られた砂場の城のように、やがて誰にも思い出されなくなってしまう。それは嫌だな。そんなことを考えながらベランダでタバコに火をつけた。緩やかに死に近づいているとも知らずに。

 

すべてを終えて台所でお茶を飲みながら、ふと「死んでからも自分のことを覚えてくれている人が5人もいたら、じゅうぶんなのかもなあ」と思った。確かに祖父は立派な人だったのだろう。でも自分は、立派な人だから祖父のことを覚えているのではなくて、生きているときとまったく変わらずいまでも祖父のことが大好きだから、祖父のことを覚えている。きっと祖母も父もそれは同じで、だったらそれで、それだけでいいのかなあと初めて思えたのがこの新盆だった。多くの人々から華やかに惜しまれる一瞬よりも、ほんのすこしの近しい人から永く永く愛され続ける時間のほうが幸せだと、祖父がそう感じていてくれたらうれしいなと思う。