20180829

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8月。祖父の新盆で、福島に帰っていた。

 

祖父は生前、いろいろなことをしていたひとで、いろいろなところに付き合いのある人だった。もともとはバスの運転手をやっていて、運転手を引退してから管理職、事務なんかを継いで、趣味で囲碁と将棋をやっていた。後から聞いた話だと、若い頃はまあまあやんちゃで、酒もタバコも人並み以上な人だったらしい。

 

自分の知っている祖父は、孫たちのことが大好きだった。特に自分たち兄妹は東京に住んでいて、お盆とお正月くらいしか会えないせいか、6人の孫の中でも特に可愛がられたように思う。会いに行けばいつもトイザらスに行って好きなおもちゃをひとつ買ってくれて、少し時間ができると近くの遊園地やプールに連れて行ってくれたり、同じ本を何度も読み聞かせてくれたりした。

 

祖父が亡くなったのは、自分が大学3年生の秋。胃ガンを患って数年間苦しみ、9月18日の朝に容態が急変して、最期を看取ったのは祖母だった。
葬儀にはたくさんの人が来た。近所の人、仕事で付き合いがあった人、市役所のナントカ課の代表、昔の親戚、父や叔父の仕事関係の人などなど。

 

葬儀のことは、正直あまり覚えてない。
覚えてるのは、葬儀屋の取り決めに納得がいかず、ほぼ喧嘩腰で手続きをしていた父の姿と、棺の前で泣く妹と祖母の姿。それから葬儀中になぜかお金をいただいたこと。祖父が孫たちに残した最後のお小遣いというなんとも恥ずかしい名目で、封筒に入った3000円が渡された。火葬場に行く途中、祖父だったらどんな風に使ってほしいかななんて考えたけど、これといって浮かばなかったら遠慮なくハイライトと文庫本数冊を買わせてもらった。

 

葬儀中は全く泣かなかった。というか泣けなかった。こういうときは孫として涙のひとつくらい見せてあげるべきなんじゃないかななんてぼんやりと思ったけれど、自分でもびっくりするくらい涙が出てこなかった。自分たち6人の孫はそれぞれ前に出て、弔辞のような、別れの言葉のようなものをそれぞれ述べたけど、他の兄妹やいとこは嗚咽のせいで声にならない声で何とか言葉にしているのに対して、自分だけがしれっと落ち着いたトーンで喋っていた。

 

悲しくないと言えば嘘になるけど、泣き喚くほど悲しかったわけではない。来るべき時が来た。くらいの感じしかなかった。

 

それから約一年が過ぎて、祖父が初めて現世に帰って来る日にお線香をあげにきたのは、家族以外に誰もいなかった。読経などもされなかった。祖母と妹と3人で果物を買いに行き、仏壇に供えて手を合わせた。

 

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最初の新盆を迎えて、お線香をあげ、迎え火を焚いてそれを跨いだ。いまでも家の裏手の田んぼでは、毎年毎年たくさんの稲がこうべを垂れる準備を始める。祖父の生きていた頃と、何も変わらずに。

 

一人で散歩をしていると、なんとなく、死ぬということが怖くてたまらなくなった。人がたくさん死ぬ小説を好んで読んでるくせに。生きているからこそ人と繋がれるのであって、身体がなくなった瞬間、一瞬でみんなの記憶から消え去ってしまうことが恐ろしい。生きているあいだにどんなに立派なことを成しても、死んでしまったら、遊び終えて忘れ去られた砂場の城のように、やがて誰にも思い出されなくなってしまう。それは嫌だな。そんなことを考えながらベランダでタバコに火をつけた。緩やかに死に近づいているとも知らずに。

 

すべてを終えて台所でお茶を飲みながら、ふと「死んでからも自分のことを覚えてくれている人が5人もいたら、じゅうぶんなのかもなあ」と思った。確かに祖父は立派な人だったのだろう。でも自分は、立派な人だから祖父のことを覚えているのではなくて、生きているときとまったく変わらずいまでも祖父のことが大好きだから、祖父のことを覚えている。きっと祖母も父もそれは同じで、だったらそれで、それだけでいいのかなあと初めて思えたのがこの新盆だった。多くの人々から華やかに惜しまれる一瞬よりも、ほんのすこしの近しい人から永く永く愛され続ける時間のほうが幸せだと、祖父がそう感じていてくれたらうれしいなと思う。