何を得て何を学んだのか。話はそれからだ。

数年前に、京都大学を出て専業主婦になった方のブログが話題になったのを覚えている。

 

その中に、印象に残っている一文がある。

 

”そう、結局は、ジェラシーと、なんとかして学歴を手に入れるテクニックを盗んでやろうという、まるで学問に王道ではない抜け穴があるかのような、本当に馬鹿げた、下卑た考えと、大学=大企業=幸せという、いまだにそれ?みたいな変な価値観なのだよ”

 

当該記事はすでに削除されているので、残念ながら全文は読めないのだが、当時複数のメディアに取り上げたので遡れば概要は把握できると思う。

 

この記事を読んで感じたことをなんとなく、思い出しながら書いてみたい。

 

引用した箇所のような「ジェラシー」を持つ人たちは、学力というのは単に年収を手に入れるための「ツール」としか思っていないのではないかと感じる。なぜかというと、そういう人たちが「もったいない」と言ってきても、「でも僕は今こういう仕事をしていて、このくらい貰っています」という話をするとやけに「満足」するからだ。まるで自分の考えが間違っていないことを再確認するかのように。

 

世の中には様々な理由で大学を辞める人がいるけど、なぜそういった人のことを赤の他人が残念がるのかは全く理解できない。そういう人は学歴を結果として、水戸黄門の印籠のような、それだけで何かの証になるものとしかみていないのだろう。

 

でも、水戸黄門の印籠が力を発揮できるのはあくまで助さんと角さんという用心棒がいてこそであって、黄門様だけが旅していたらとっくに殺されてるはず。

 

もっと言うと、アフリカの呪術師が白人旅行者がATMでお金を下ろしているのをみてアメックスのカードを無限に金を作る魔法の道具として奉った話の方が近いかもしれない。

 

何が言いたいかっていうと、印籠やカードが無意味ってわけではなくて、そもそもカードや印籠を持っていること自体が権力や社会的信用の証明ということ。実体的な力はないけれど、間接的に力を持っている。

 

同じように京大卒という学歴や肩書きっていうのは「何かの力の証明」なのであって、それだけでは意味はないけども、逆に言えば学歴や肩書きがある人はそれらがなくても優秀であることが多い。

 

今の社会は、例えば、「東大卒は就職に強い!」みたいな結果ばかりが飛び込んでくる。そのせいで、結果ばかりが価値を持ってしまい、なぜ強いのかという過程が見えなくなってしまう。ボクサーなら仮に辞めてもパンチは強い。プロ野球選手は引退しても野球はうまい。それはその肩書きを手に入れるまでも過程で得たものであって、逆ではない。ボクサーだからパンチが強いんじゃなくて、強いからボクサー。

 

だから、学歴を捨てることに「もったいない」と言ってくるような人たちには、「ああそうか、この人たちは努力に裏切られて辛い思いをしたんだろうなあ」と思う。運が悪かったからなのか、努力の方向性が間違っていたからなのかわからないけど、後に「証明」が残らなかったんだなあと。

 

努力が全て身を結んでくれるわけではないし、成功している人が必ずしも努力しているわけでもないけれど、ボクサーになれる人はパンチ力があるし、翻訳家になる人は外国語ができるし、それだけの話なんだ。

 

東京外語大を出たから通訳になっているのではなく、外国語ができるから通訳をしているわけだし、東大出て官僚になるのも、高給取りのホワイトカラーになるのも同じことだと思う。

 

「今の社会では学歴は必要ない」っていう言説は確かにあり、僕はそれはその通りだと思うんだけど、「学歴に意味はない=学力に意味はない」ではないし、残念ながら学歴と学力は正比例してしまう。

 

社会はいつも、みんなが思うほど大きく変わらないし、みんなが思うほど不変ではない。